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本当の自分 [記録]

やっと本当の自分を綴る日が訪れた。本当は醜い自分を…

6月末、父は静かに旅立っていった。

葬儀も四十九日の法要も、継母と兄嫁は予想通りお客様状態で何一つ手伝う事は無く、私は親戚、そして近所の人達に助けられながら淡々と終わらせていった。いや?本当は私達家族、親戚側と、継母を中心とする父の取り巻き側とで揉めに揉め、思い出したくも無い葬儀だった。

兄嫁は兄を施設から連れて来る努力もせず、兄と父は別れすら出来きないまま全ては終わってしまった。
継母は亡くなった父の肩書き、社会的地位だけを気にかけ、その父の『可哀想な奥様』として父の友人に扱われれ葬儀に参列する事だけにしか関心を示さず、親戚や近所の方々への挨拶一つする事はなかった。そして、
葬儀、四十九日が過ぎると…お決まりの相続争いが始まった。全く先が見えない状況に私は呆れ、疲れ果て、全てを放り出し、自宅へ戻って来た。

それまでの実家での生活も、耐え難いものであった。
母の位牌と共に継母と過ごす、それ自体が辛い事であった私に、継母は父に携わってくれている多くの人達への不平不満を毎日毎日、朝から晩まで聞かせ続けて来た。
継母には、人への感謝という心が全く見られなかった。
継母の介護は自己満足の何物でも無かった。
在宅介護を選び、家族の見守る中、自分が手掛け愛でた庭を見て過ごしながらも父は、辛い医療処置を毎日受けていた。
「お父さんの為なんだからね。がんばってね。」と継母に言い聞かされ、受けさせられていたのである。最後の最期まで父は頑張らされ、継母の為に生かされ続けていた。
あれはもう虐待の何ものでもなかった…
毎日来てくれている看護師でさえも、明らかにそう思っていた。看護師、医師の医療指示さえ帰ってしまえば無視し、ケアマネをしている実の娘のアドバイスも聞く事はせず、母の意地とも言える介護が続いた。私はそれに付き合わされた。
私には「辛い…嫌だ…」とハッキリ言いながらも、継母の前では「うん」と処置を受け入れてしまう父。
最期となった日だけは何も起こらず何もせず、お世話になった方々も見守る中、静かに旅立てた事が救いだった。

これで全てが終わった…

そう、私は予想していた通り、父の死を悲しんではいなかった。正しくは、悲しむ事など出来なかった。

自分の気持ちを押し殺し、平穏な生活だけを願い、耐え続けた27年間の継母との関係が、これて終わる…
亡くなった母、重い後遺症の為に施設で暮らす兄、未だ完治せず鬱病を患いながらもなんとかパートに出ている姉、そして私を暴力で支配し、苦しめ続けていた父との生活が終わる…

その安堵感で、私はいっぱいだった。

二十歳で家を出て後、自分の記憶から消していたもの。自分の心を守る為に自分自身の記憶を奥底に閉じ込め、生活し続けていた私。
それが皮肉にも、父の死と同時に蘇って来たのである。

そう私はDV家庭で育った人間なのである。

父が死ぬまで、近所に住む従姉妹にさえ父の暴力は話した事が無かった。夫にさえも…
父は家以外では、温厚で頼れる人なのである。親戚からは優しい大好きなオジさんだったのである。
でも私達兄弟間では、誰一人口にしてこなかったが、父をこのまま見捨てても、罰は当たらないよね!と言う同意は取れていた。

それでも私は居を移し、父の介護をした。
しかし私の父への介護は、愛では無い。
人として、子どもとしてするべき義務を果した…それだけである。
息子の母親として恥ずかしくないよう、家族の姿、人としての生き様を見せたかった。それだけである、

そう言いながらも私は、父の介護を本当に一所懸命した。幼い頃から経済的には何不自由無く育てて貰った感謝の気持ちを込めながら、心を込めて接した。
そして父の苦しむ姿を見て、本当に可哀想だと思った。

でも…『死に様は生き様』とは、よくいったものだ

可哀想と思いながらも私は、
「あなたが選んだ女房が望んでしていること。これがあなたの人生。あなたの終わり方。」
と心の中で呟いていた。そう呟く自分が醜く怖かった。

誰の言う事も聞かず、自分勝手に生きた父の『生き様』のお陰で私と姉は今も尚、新たな問題に苦しめられている。
出口が見えない、新たな戦いである。
兄さえ元気で居てくれたなら…

他人の事など、どうでもいい!!自分さえ良ければ…
あの他人の二人の様な考え方、どうしたら思いつくのだろう…そんな人生、どうしたら送れるのだろう
『生き様が死に様』
そう思うと、私には出来ない
この先どう決断し、生きて行けばいいのか分からない…

気が付けは、今日は父の誕生日である。
「おめでとう」なんて、もうこれからは言わない










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